シンプレクサス工房・ギャラリー設立までの歩み

 志田 寿人(●)代表とのインタビュー       インタビューアー:中村 織絵(●)学芸員

●: それでは次にアートについての構想に移りたいと思います.アートと言っても
    作品を拝見するとおそらく現代アートを考えているのかなと思うのですが,
    私がちょっと驚くのは生命システムの探求,これって生物学の研究ですよね,
    この研究と現代アートを実際に製作することの両方を行おうとしていること
    なんですね.しかも現代アートと言うのがコンピュータ・グラフィクスとか科学
    となじみやすいものでは無く,逆に科学には"翻訳不可能”とか書いていて,
    これってどう考えたらいいのか,すごくその通りかなとも思える時もある けど
    そうかなと思える時もあるし,その辺から説明をお願いします.
●:  僕もあまり他の人の主張を調べたことは無いのですが,アートと科学を並べ
    るとどうしてもテクノロジーや科学が獲得した最新のツールやイメージと
    アートとの関連を反映したものに成る.これはこれですごく面白い分野だとは
    思うのですが,アート全体の性格は少しずれた処にあるような気がするのです.
    無味乾燥に言うと, アートとは身体,道具,機械を使って表現する何かと言って
    良いと思うのですが,手段と表現の組み合わせは数え切れないほど有って,
    現代アートではこれがひしめき合って自己主張している状況ですよね.技術とか
    科学のイノベーションが終りの無い成長の中で,圧倒的な成果を文字通り現実
    イメージとして人々に見せつければ,この影響下のアート表現が登場するのは
    当然だし,逆に振り子がゆれるようにこれを修正しようとする動きも登場して来
    ます.多様化の代表ともみなせる既存絵画の定義に収まりきれ無いアートの
    形式も,決して現代アートが先頭を切ったわけではなく,表現としてのイベント
    やパフォーマンス等大昔から存在していたことを考えると,これがオーディオ・
    ビジュアルな環境を得て爆発することは不思議なことでは無いかもしれません.
    しかし,この多様化,これは別の表現をすれば豊かさとも言えると思うのです
    が,現代アートは本当に多様化したのかどうか,豊かになったと言えるのか
    どうか.アート全体が時代を反映して動いていることは否定できない事実だし,
    特に産業    や商業活動に結びついた分野,例えばデザイン,建築,
    オーディオ・ビジュアルな作品等のことですが,そういう分野の先頭を走る作品
    は後戻り出来ないような平衡状態,高い到達点をクリアし続けているようにも
    見えるのですが,何か人間のコアの部分に絡むような表現ではどうなんでしょう
    か. 
        
●: その”人間のコアの部分に絡む”表現というのが何かキーワードに成りそうですね.
    見た瞬間,”何これ”みたいなよく分からないものも含めて,とにかく目立ちたい
    のかなというのは伝わってくるけど,いろいろ出てくる割に何かしっくりこない
    というか,素通りしてしまうみたいな.  
●: ええ,ちょっと僕がいきなり広い話に持っていってしまったのでフォーカスを合
    わせづらいのですが,そこなんですよね.商業宣伝に関してはいろいろな洗練
    された説得の技術がこれでもかこれでもかと工夫されて行く,そこにはアート
    の細かい区分けなどどうでも良いんですよね.使える映像は何でも使うし,
    多くの人々が関心を寄せるエピソードや時代の雰囲気と商品とを結びつけよう
    とする.それに対して純粋と称する現代絵画はそういう貪欲さは全く有りま
    せん.はっきりした形では表現していないと思うのですが,それにはっきりと
    表現することなどそもそも無いということもあるので決め付けに慎重でなく
    てはいけないにしても,個人の日常の感覚と言うのが源に有って,その他の
    ものが見えない場合が多いように感じます.今の生活場面の具体的断片が
    モチーフとして登場するということでは必ずしも無いのですが,その人の関心
    を寄せる先に個人を越えるものは想定されていないと言ったら良いんでしょう
    か.でも,それらはたかだかここ100年ぐらいの歴史の流れから生じて来た
    現象であって,もっともっと歴史をさかのぼるとどうなのか,アートの源流は
    そういうものとして人類の歴史の中に誕生して来たのか考えたくなります.


●: え〜,もっと広い話になったじゃないですか(笑い).人類アートの源流みた
    いな証明が難しい話ではなく,私でも議論に参加できそうなアート論って
    無いんですか.例えば”かわいい”の比較文化論とか(爆笑).
●: かわいいで思い出しましたよ.すごく魅力的な視点でずっと気になっていた
    のですが,
幼い子供が最初に表現手段を手にした時を考えてみましょう.
    幼児は自分自身の手の動きを思うようにコントロール出来ないことも有って,
    描くものは定形の形には成っていません.しかし,その子の頭の中にあらか
    じめ描こうとする形がイメージされていて,その形に何とか近付こうとして
    試行錯誤を繰り返しているのでしょうか.それは違うと思うんですね.幼児は
    手の動きによって作り出されるものに驚いているのです.惹きつけられ,
    魅了されている.その形を何かに似せようとしているのではない,何かを
    スケッチしようとしているのでもない
つまりスケッチしようとする客観的
    な何かを前に対象と向き合うのではなく,ただひたすら手の動きに集中して
    いるのです.これはものすごく驚くべきことではないでしょうか.最初のアート
    の源流はスケッチではなく描くという行為から編み出される表現の驚き,
    魅惑から始まったとしたら・・・・.


●: 今まで想像もしたことが無いような視点を感じます.どうしてもアートの流れ
    の中でしか考えなかったのですが,人類がアートを手にした瞬間の魅力は
    そこに有るのかもしれませんね.
: ところが幼児の場合直ぐに周りからの強制が始まりますよね.これは何を描
    いたの?口はどこかな,お眼めは円だよね,とかいつのまにか大人の価値観
    やスケッチのルールが優先して行きます.でも子供達は一度経験した描く
    行為の楽しさをそんなには簡単に手放しません.それに子供達の自由に
    コントロール出来ない手指の動きは,対象に縛られて描くことからの自由さと
    言う面ではむしろ有利に働きます.大人達の指導が有ったとしても,子供達
    の描くこととの幸福な出会いはしばらく続くことになります.しかし,ある時期
    に成ると,アートの源流が枯れてしまうわけでは無いのですが背後に退き,
    それに替わって前面に描きつくそうという欲望が登場せざるを得なくなります.
    ここからは子供達の発達の話ではなく,アートの通常の流れと合流するので
    理解しやすいですね.もちろんその能力も無い僕が絵画の歴史をふりかえる
    ことなど狂気沙汰ですから,自分の勝手な判断で一番重要と思うところだけを
    採り上げさして下さい.さっきの話に戻りますと世界の合理的理解が科学の
    目標であるとすれば,この客観世界の合理的描写,表現が社会的に認めら
    れた社会ではそれを製作する者にも鑑賞する者にも強烈な満足感を与える
    ことになります.両方とも自然や社会の非条理,不合理と闘う一種の力として
    機能しますから,社会的なリソースとして重宝がられることになる.ところで,
    アートがこのような感覚の動員,社会的な美意識の統合のような機能を持て
    ば何が起こるかといると,支配のルールがそれを見逃さないというか,積極的
    にとりこもうとすることが必ず起こってきます.一方ではさきほど言いましたが
    表現する者に対しても,この”描きつくす”という願望は時に強烈な支配力を
    振るい,肉体的精神的限界を無視するかのような人間技を超えたあくなき
    精進を強制しますから,凡人がとうてい到達できない神業に達した天才は
    それと引き換えに熱狂的孤立を生きるといったこともしばしば起きるのです.
    しかしここまでは古典主義からロマン主義あたりまでの話で,近代絵画は
    この絵画の客観的描写力と密接に結びついていた物語性を排除し始め
    ます.そしてついに近代の絵画はそれまでの最大権威であった宗教からの
    独立を成し遂げるのですが,現代絵画はこの権威からの独立を徹底し,
    基本的にはいっさいの政治的プロパガンダやストーリー性の拘束からも離脱
    しました.なぜこのような一大転換が出来たのでしょうか.あれこれあると
    思うのですが,現代絵画がその内容の変革と並行して,それと不可分の関係
    で表現の変革も徹底しことが挙げられます.ターゲットは古典的な写実だけ
    ではありません.現実世界との繋がりを客観世界の即物的イメージで表現
    することは完璧に目標で無くなりました.これは西欧文化の流れの中では
    真に驚くべき転換であり,今なおその余震は続いているように思います.


●:  またもやマクロな歴史の話で,表現することに魅せられた幼児の描くという
    行為から,アートの源流が見えて来るのではないかという考えと,近代から始る
    アートの激変と言うのがどんなところで関係があるのか,どうもはっきりしない
    のですが.


●:  わかりづらい処なのでちょっとがまんをお願いしたいのですが,話は一気に現代
    アートに入ると,アートのこの権威からの独立というのは当然引き継いでいかな
    くてはいけないものすごく大切な遺産だと思います.後戻りしてはいけないし,
    また後戻りしようとしても出来ない理由がある.なぜなら,アートが他から強制
    されたのではない,沢山の芸術家の自己変革の努力の積み重ねで始めて獲得
    した確信ですから.しかしもっと深い理由はアートの表現そのものの転換に
    ある.
    僕が一番最初に触れたように,アートのテリトリーの拡大ということは実はそれ
    ほど分かりにくい話しではないんですね.それをアートと思いたくなければ思わ
    なければ良い.そういったアートの越境行為はこれからも続々登場することは
    避けられないし,また一種の流行のようなものとして広がりを見せるかもしれ
    ません.しかし,最も原始的な行為として始った形や色による表現が客観世界
    を離れたという変革は,それとは比較にならないほど理解を超えた困難が潜ん
    でいるように思えます.つまり,人間の独自の情報処理の様式がその根元から
    ゆらいでしまうような,またそれと密着した新たな価値観が必要になるような
    変革と言ったら良いでしょうか.具体的な例を出して見ましょう.バスキア,
    彼は80年代初期,ニューヨークのダウンタウンを舞台に彗星のように登場し
    夭折した芸術家ですが,その彼が主演した”ダウンタウン81”という珍しい映画
    が残っています.バスキアをアイドルのようにみなしてアートとしての役割を
    軽く見る人もいるのですが,その向きにはこの映画をぜひ見ていただきたいと
    思います.というのはこの中でバスキアがペンを使ってドロ−イングを試みる
    場面があるからです.バスキアのペンの動きは滑らかさはもとより,修練を感じ
    させる一切がありません.それどころか意図的に修練の痕跡を消そうとしている
    かのような非定形の動きに終始します.現代アートの父であり母であるかの
    ように言われているピカソの陶製皿の製作場面の映画でも鳩のドロ−イング
    場面があるのですが,こちらは明らかに滑らかな淀みない線でピカソと現代
    アートとの距離がどれほどなのかもはや明らかです.表現の自由度を増す
    ために始った描写へのあくなき追求は,それが神業とも言える頂点に達した
    時突然雪崩のように何事かを描くことからの自由という方向に崩壊しました.
    現代アートの誕生です.これって,もしかしてアートの源流ではないかと驚いた
    あの幼児の筆の動きとものすごく似ていると思いませんか.現代アートは
    何千年の歴史をへだててようやくアートの源流を再発見したとしたら,この仮設
    の意味があまりに大きいので僕自身まちがいで有ってくれと思いたくなるほど
    ですが.


●:  驚きました.どう言っていいのか,うまく言葉がみつからないというのか.
●:  でも,まだ話しを終らせるわけには行きませんね.
    僕等は幼児よりはちょっぴり知恵がつき過ぎていて,むきだしの身体が自然の
    中に放り出されていないことを知っています.ペンでも筆でも何でも好いので
    すが,それが触れ合う瞬間の絵具の制御が描くことの総てではもちろん無い
    し,絵具も含めていろいろな物が自分自身で展開していく面白さの探求はまだ
    始ったばかりではないでしょうか.物自身の展開といいましたが,描く行為の
    主体から見れば支配と受容がめまぐるしく入れ替わる連続が描く行為であり,
    偶然を完璧にコントロールしたと思い込む傲慢こそ問われなくてはいけない時
    だと思うのです.
    早い話,僕等は水の上に何かを描くことは出来ない制約の中を生きざるを得な
    い.しかし,自然は水に無限の表情を与えます.水面を揺らす風,映し出された
    木立,季節の中で次々と色彩を,形を変え変化というものに制限がありません.
    荒れ狂う海,激流,突然の夕立,見渡す限りの風景をおおいつくす巨大な映像
    を前に人間の表現の卑小さを感じない人がいるのでしょうか.それでもなお描く
    行為を手放せない,それに魅了される我々が居るのには何か特別の理由が
    あるはずです.
    
    この先,僕には全く自信が無いのですが,だから予感めいたものとして受け
    取ってもらいたいのですが,我々と物との共同作業が描く行為だとすると,
    もしかして我々は自分自身が自然の一部分となることを楽しんでいるという
    ことは無いんでしょうか.いや,もっと重苦しく言うと我々は表現の背後にある
    大いなるものを実感したい,それと一体化することにより自然の新たな一部分
    となりたい,人間を除く自然自身が決して創り出す事ができなかった新しい
    ユニークな創造物になりたいと思っているのと違うでしょうか.


●: う〜ん,どうなんだろう.でも逆転また逆転ですね.現代アートは物語性を無く
    した,それなのにもっと大きな物語性,”背後にある大いなるもの”ですから.


●: 確かに言われて見ればそうですね.宗教とか権力とか権威に結びついた物語
   ではなく,人間の運命に結びついた物語性,しかもそれは具体的な擬人的場面
   を表現するのではなく物との共同作業で登場する物語性と考えると,ぞくぞく
   しますね.

●: どうなるかと思ったのですが,かなり元気が出てくるようなインタビューに成った
   気が します.工房では現代アートをいろいろな角度から考えるだけでなく,
   具体的な製作で豊かにしたいとホ−ムページに書いてありました.面白い作品が
   登場することを期待して終りにしたいと思います.本日はありがとうございま
   した.次回はインタビューの最終回で,工房建築や組織構想についての話題に
   なります.